傷ついた小指が教えてくれたこと

体感がないというコンプレックス

昔。

自分は何に関しても全く体感がないと思っていました。

宝石に対して温度を感じるとか、神社に行って「ここはとても気持ちがいい」と
感じるとか、そういう意味の体感です。

お客様の中には「石を置いた方の手がビリビリする」「この石を乗せたらゾクゾクする」
などのような体感を持たれる方は結構いらっしゃいます。

体感覚においては「何も感じない、よくわからない」ことが若干コンプレックスだったこともあります。

ただ、ある日、感じている人によくよく質問してみると「そんなに微細な目盛で感じていたのか!」
ということにびっくりしたんです。

感じる「目盛」

誤解を覚悟で書きますが「そんな程度で感じていると言っていたんだ!」という驚きでした。
私は勝手に体感を言葉にする時、とても激しく何かを感じているものだと思っていたんです。
例えば「宝石を手に乗せてビリビリ」も、体が揺れるほどビリビリを感じるものだと
思っていたわけで、その目盛で測ると私は何も感じていないということになるわけです。

けれど小さな単位の目盛にぐぐっと縮めてみると、ふんわり・じんわり変化が
あることに気づけます。

おお〜〜なるほど。そういうことだったのか!!
この目盛の存在に気づいてから、私の体感の感度はぐんぐん上がりました。

そもそもの前提が違ったから。

象にはまったく感じられないことも、リスの大きさになったら
感じられることがたくさんあるはずだと思うんです。

痛い時の目盛

そして気づいたんですよね。
私はかつてはもっと体感が強かったはずだということ。
けれど大人になるにつれて、体感の目盛をとても大きくすることで
生きにくさを克服してきたのだと。

マイクロ単位の目盛をキロ単位まで広げていた感覚。
いわゆる「鈍感力」ですね。
これを鍛えないと生きるのが厳しかったのです。

と、つらつらと書いていますがそんなことを考えたこともなく、こうして後付けで理由を
当てはめています。全ては無意識で行われたことだから。

痛みは目盛を細かく刻んでくれる

今回、小指を負傷しました。
痛いんです。
この状態だと力を入れる時に痛み、靴を履いても痛む。湿布を貼る・剥がす時に痛む。

普段は何も意識しない足の小指が、その存在を絶えずアピールしてきます。
だからとても感じるんですね。目盛がとても小さくなっていることを。

これは心も同じだなと思いました。

傷ついたり余裕がなかったり、恐れがあったりする心は、目盛がとても細かい。
だからこそ敏感に反応してしまい、疲れてしまう。

目盛が小さいということは、敏感であり繊細さを纏うことです。
かつての私にとってそれがとても苦しかった。だから大きな目盛へシフトして
感じることを減らしていたんだと思います。

一方で、感じることって素晴らしいなと改めて思ったんです。

小指がそこにある、ということを痛みは教えてくれる。
いつもこんなに働いてくれていたんだなと気づかせてくれる。

きっと心が傷ついた状態なら、「ああ、心がここにある」と気づくことでしょう。

痛みは自分を見直すいいきっかけかもしれません。そして元気な時なら決して発動しないような
細やかな感性が生まれるのかもしれない。

かつての作家さんはとてもエキセントリックな人生を歩んだ方も多くいらした。画家もそうですね。
その繊細な感性こそが生み出した芸術があるけれど、本人はきつかったと推察してしまいます。

宝石は繊細な心で向き合うもの

ここでようやく宝石のお話です。
私がいつもお伝えしている「宝石の力」。

これは大きな目盛では決して気付けるものではありません。
微細な目盛を設定し、聞こえるか聞こえないかギリギリの囁きに耳を澄ます感覚に
似ています。

小さな目盛にすればするほど必ず感じるはずです。


こんなにも小さな石が放つ波動。


時に暖かくもあり、励ましてくれることも勇気づけてくれることもある。
時に叱咤激励か?という厳しさを感じることもあります。

それは温度、色、透明感や輝きの状態などが教えてくれます。

ですから元気いっぱい!!の時よりも、傷ついて疲れ切った状態の時の方が
感じやすいかもしれません。

弱っている時ほど細かなことをキャッチできるもの。それは五感が繊細になっているからです。
元気な時は石が輝くに任せていたらいい。そして行動し切っていたらきっと知らないうちに
後押しは入ることでしょう。


けれどしんどいな、と思う時こそ、宝石を見つめ、感じてみていただきたいのです。
元気な時とは違った宝石の力を垣間見ることができるかもしれません。

宝石の力をもっと体感したい。
そういう方には是非ご自身の「感じる目盛」をチェックしてみていただきたいのです。

Atsuko Takano