宝石と神話と人間

このブログは本当に久しぶりに更新します。

ここのところ本当に探求に次ぐ探求で、ひたすら潜り続けていました。
宝石学の試験を終えて真っ先にやったのは読書。
これは、神話の世界では一体宝石はどんな登場の仕方をするのだろうか?
どんな立ち位置にいたのか?を知りたかったからです。

けれど読んでいても本当に宝石に特化したものに行きつかないのです。
もちろんゼロではなく、女神の涙が琥珀になったとか、太陽神アポロンの二輪車にはダイヤモンドとペリドットが散りばめられていたとか、デュオニソスが妻に送った王冠はその妻の死後、追悼の意を込めて天に投げたものが今の冠座になったとか。

せいぜいこんな程度です。

読み進めているうちにはたと気づいたんです。

「神にとって宝石はそれほど大きな役割は果たさないからではないか?」と。

これこそただの装飾品なんじゃないかな。
改めて「宝石は人間が意味づけをしたものだ」と気づくのです。

それは不老不死だったり全知全能の神とは違い、老いて死ぬし、いつだって未完である我々人間たちが、宝石というものにその神の姿を重ねたのではないかと。

または神の姿でないにしろ、自分たちが欲しいものを宝石の先に見て、「そういうもの」にしたのだと。

それにしてもすごいと思うこと

当時はもちろん現代のような鑑別技術もありませんし、研磨技術も今とはまったく違います。
ダイヤモンドに至っては、その硬さゆえ加工が非常に難しく、現在につながる本格的なファセット加工が発達するのは15世紀頃からです。
17世紀になると、光の反射を意識したブリリアント系のカットが発達していきます。

それでも古代の人たちはダイヤモンドを特別なものとみなしました。
また、後のビルマでは、戦士たちがルビーを戦いで自分を無敵にする石と信じ、身体に埋め込んだという伝承まであります。

これってすごいことだと思うのです。

だって原石だけを見ると、ダイヤモンドってそこまで魅力的でしょうか……。もちろん他の石ころと比べたらピカッとします。

そしてルビー。赤い原石だけを見れば、ガーネットやスピネルとよく似たものもあります。

では昔の人は、それらをどう見分けていたのでしょう?

調べてみると、ここでまた面白いことがわかりました。

そもそも、今の私たちと同じようには分けていなかったのです。

古代には、ラテン語で「carbunculus(カルブンクルス)」と呼ばれる、「燃える炭」のような赤い宝石をまとめて扱う言葉がありました。そこには、現在ならルビー、ガーネット、スピネルなど別々の鉱物として分類される石が含まれていたと考えられています。

となると、ますます気になります。

人間は石の何を見て、そこに意味を与えたのでしょう?

そんなことを考えているともう止まらなくなりまして、あれこれと文献を探しまくりました。
そうするとまず考えられるのは「硬度」。
ダイヤモンドは、ギリシャ語の「adamas(アダマス)」——「征服されざるもの」「屈服しないもの」といった意味を持つ言葉——に由来するとされていますから、その硬さに当時の人々は驚愕したのでしょう。
それはわかる。

あとは「色」です。
例えば紫は高貴な色で、一定以上の身分の人しか纏ってはいけないとか、赤は古代ローマでは皇帝の色とされてビザンティン帝国では皇帝だけが真っ赤な服を纏っていたとか。または教会の最高権力を示す色であり、他との身分を差別化する色だったと言われています。

そして青。青は神に近い色。
聖母マリアのマントにも青が用いられています。

色に関してはこうした記載がたくさんあるためこの辺にしておきますが、じゃあそもそもどうして赤を見て、青を見てそうなったの??

子供か?という状態で「なんで??なんで??」を続けてきました。

昔の人は冴え冴えだった

要するに昔の人たちは、今の私たちとは違う形で、世界を感じ取っていたのではないかと思うのです。

石の色、硬さ、光、重さ。
空気、匂い、風、季節、動物の気配。

それを「エネルギー」と呼ぶのか、「感覚」と呼ぶのか、「象徴」と呼ぶのかは、まだ私にもわかりません。

そうした感覚の鋭さが、生存に今よりずっと重要だった時代でもあったのではないでしょうか。

幸か不幸か私たちは安全で便利、快適な世界に住んでいますから、外気の匂いや風の鋭さで何かを感じ取ることはできなくなっているのではなくて「しなくなっている」のではないでしょうか。

子供の頃は学校の行き帰りに感じたこともあった気がするんです、こういうこと。

目はスマホを追いかけ、暖かく涼しい室内で過ごす。食べたいと思った時に食べたいものが食べられて、すぐに温かいお湯が出る生活。

もちろん私自身がこんな生活を愛しているから、それがダメって話ではないですよ。
ただ、昔の人がわかって現代人が感知できないとしたら、理由なんていくらでもあるなと思ったというお話です。

周囲に溢れる「モノ」のクオリティが上がれば上がるほど、何かを手放しても良くなったんじゃないかなあ。

昔の人たちの鋭敏な感覚はサバイバルの中で生きてきたからこそ研ぎ澄まされていた部分もあるだろうし、あとは圧倒的に「モノ」が少なかったからこそ精査することも簡単だったのかもしれません。

宝石が象徴するもの

そんなことを調べているうちに、とうとうユングの世界まで行きつきました。

意識と無意識。ほとんど無意識の領域を説明しているんだけど、夢でそれを探るといったことがたくさん書いてあります。
読みながら「そんなに都合よく夢なんて見るかね?」と思いつつ難解な本を必死で読んでいたんですが、ある日突然、すごく鮮明に夢を見るようになりました。

あまりに強烈だったので覚えているうちにAIに打ち込んで分析させると、これが面白い。
私の「無意識」からたくさんのことが炙り出されてくるのです。

ほぼ毎日、それを繰り返しているとだんだんとテーマが移行していくんですね。
自分では全く意識していなかったことが、夢と解説により意識化されると、現実の感覚も変化してきます。

今の私(まだ過程ですが)は、宝石を以前よりもずっと「象徴」として捉えることが増えました。
そして、人間と宝石との関係はもっと複雑です。

私はこれまで、お見立ての中で「この宝石が、この人に反応している」と感じることを何度も経験してきました。
けれど今になって、その感覚を別の角度から考えるようになりました。

「私は、その反応の何を感知していたのだろう?」

色なのか、形なのか。
鉱物としての特性なのか。
あるいは、それらが持つ象徴なのか。

人間は、宝石のそうした性質の中に何を見てきたのでしょう。
そして、それは私たちの無意識とどのように関係するのでしょう。

ここから先は、まだ私の仮説です。

古代の人たちが、今とは違う感覚で世界を見ていたのだとしたら、私たちにもその感覚を研ぎ澄ますことはできるのではないかと思います。同じ人間なのだから。
そういう感覚で宝石に向き合っていくことはとても面白く、自分を知るための旅路になると思うのです。

宝石を調べていたはずなのに、気づけば神話を読み、宗教を調べ、色を追い、とうとうユングまで来てしまいました。
でも今は、それらが別々のものには思えません。
宝石を知ろうとすると、結局、人間を知ることになる。
しばらくこのブログでは、そんなことを書いていこうと思います。

参考文献 「ギリシア・ローマ神話」岩波文庫
      「西洋シンボル辞典」八坂書房
      プリニウス『博物誌』第37巻
      Gemological Institute of America(GIA)「Ruby History and Lore」