散らかっている私の日常
先日は神話とユングと象徴としての宝石についてのお話を書きました。
もともとは「似合う」という観点からアクセサリーを売っていたのに、気づけばユングって(笑)。
面白いものです。
この「派生」についでにもう少し掘り下げさせてください。
一つお断りしておきたいことがあります。これは「私物語」を語りたいわけではないのです。
こうしたことを誰もがやっているはずであり、またはやらずに流してしまっているかもしれない。
けれどやっているうちに何かが生まれるかもしれないという「自分の掘り方」についてのお話ができたらいいなと思っているのです。
さて、読書は6月末から開始しまして、だいたい3冊ほど同時進行で読んでいます。
じっくり読みたいものはメモをとりながら。流せるものは電車の中で。
そんなことをしているあいだになぜか猛烈に絵が描きたくなったのです。
8月に入り、友人がやっている絵画教室に行った日のこと。
「2時間じゃ足りない・・」そう思ってその日の夜から絵を描き始めました。
しかしまあ描きたいものが描けない。
このフラストレーションが異常で、どうしたら私が見えているものがそのまま描けるんだろうか?という問いが止まらなくなりました。
描いても描いても全然的外れなものが生まれる。
もどかしさで悶えたほどです(それは今も進行形)。
それでも毎日毎日描いていて、基本的な知識がないと絵は描けないなという結論に至りました。
もちろん天才はそうじゃないでしょう。見たものをキャッチして描ける人はたくさんいるはず。
けれど私にはそんな才能がないまま50年以上も生きてきました。陰影の入れ方もわからない、パースもわからない。顔を描いたら目の位置が変な場所にくるし、手をかけば妖怪の手みたいになる。
ほとんどの絵が平べったい絵に仕上がってしまう。
埒が開かないので、セオリーを知ることから始めようと思いました。
そこで絵画教室に通うことにしました。うちから徒歩5分。
週一通えるところへ。
とはいえ、先生がべったり張り付いてくれるわけでもなし、講義があるわけでもない。
描いた絵を手直しをしてもらうというスタイルなので、セオリーの勉強は専らYoutubeと本です。
移動中も顔の書き方の動画を見たり、家にいるときはご飯を食べるのも忘れて絵を描いている。
一体この原動力?源はなんなんだろう?って自分でも不思議なくらい。
一つは悔しさだと思う。どうして描けないの?という悔しさ。
これはいままでは「絵が苦手なのよね〜〜」で済んだんだけど済まなくなった。
じゃあなぜ済まなくなったんだろうか?
そんな問いはずっと自分に投げかけていました。
で、わかったこと
私は宝石をお渡しする際にお手紙をお客様に宛てて描きます。
それは私からというより宝石から、という感覚で書いてきました。
が、それに加えてその宝石の世界観を絵で表現したくなったのです。
自分がその宝石に見ている世界をお客様にお届けしたくなった。
けれどこれってとてつもなくハードルが高く、さまざまなモチーフが描けないと無理な話なんですね。
原始人が月へ行きたいと思って実践しているというレベルです・・・。
この壮大な夢は生きている間に叶うのだろうか?というのは今の段階では不明です。
かなり危うい。
自分で好きで描く分にはなんでもいいけど、誰かにお届けするとなると一定以上のクオリティは欲しいわけですから。
となるとですよ、「趣味です」というほど生ぬるくなく、遠いながらもゴールがあるわけなんです。
そしてなるべく早くそうしたいという「期限」もある。
って、この前の試験と同じパターンじゃないか・・・。
期限と目標があると過集中するというのが私の習性であり、これはもうやめろと言っても止まらないのです。
先日友人に言われました。
「過集中してしまうのではなくて、自らそれを求めていっているのでは?」
そうかもしれません。
なぜならばこの「過集中」に入ったあと、普段は気づいていない自分の深い部分から、何かが出てくることがあるからです。
フロー状態?
いわゆるなんとかハイってやつだと思うんですけどね、これ。
このゾーンに入ると後から必ず何かが出てくるのです。
アイディアなのかやる気なのか自己理解なのか。
そのときによってさまざまですが、源泉につながるという気がしてならないのです。
ただ、これに関してはなんでもいいわけではなく寝食を忘れるほど夢中になれることというのがキモ。
夢中になれずに集中するのは苦行ですが、夢中になれることに時間を割けるのはとても幸せなことです。
今は時間が許す限り絵に割いているわけですが、その間に自分のやりたいこと、感じていること、そして向いている方向に気づくんですね。
で、夢中になったこと(ここんとこ)を羅列してみると神話、無意識の世界、夢、そして絵画。ついでに言うとピラティスも案外解剖生理学につながるため、結びついているのです。
ここにきて「あれこれ忙しいな」と思っていたのですが実は全てが同じ地下水脈につながっていたんだ、と最近思うようになりました。
地上から見れば、宝石、神話、ユング、夢、絵画、身体・・・。
まったくてんでバラバラに違うことをやっているように見えます。
でも私の中では、どうも違わない。
宝石を見ていると、その向こうにある意味を知りたくなる。
神話を読めば、なぜ人間はこんな物語を作ったのかが気になる。
夢を見れば、自分の中に何があるのか知りたくなる。
絵を描けば、自分に見えているものをどうにか外へ出したくなる。
結局私はずっと、「見えているものの向こうにあるもの」を知りたいのかもしれません。
それが私の地下水脈なのかどうかは、まだわかりません。
でも最近思うのです。
自分の地下水脈は、最初から地図を広げて探すものではないのかもしれない。
なぜかわからないけれど気になる。
やめようと思ってもまた戻ってしまう。
誰に頼まれたわけでもないのに、もっと知りたい、もっとやりたいと思ってしまう。
あと、もう一つ。こういうものって、その時点では「役に立つ」ものではないことも多いと思います。
これが案外、一番の難関です。
特に私のように個人で仕事をしていると、「それ、仕事になるの?」「売上につながるの?」という声が自分の中からすぐに出てきます。何の役に立つのかわからないことに時間を使うのは、結構な罪悪感を伴います。
私にとって絵は、まさにそうでした。
でも地下水脈って、掘っている最中にはどこにつながっているかわからないものなのかもしれません。
役に立つとわかっているものだけを掘っていたら、すでに知っている場所にしか行けない。
それでもそんな場所を掘って、また別の場所を掘っているうちに、あるとき「あれ? ここ、地下でつながってない?」と気づく。
だから、もし今、自分のやりたいことがわからない人がいたら、最初から「私のやりたいことはこれです」と決めなくてもいいんじゃないかなと思います。
なぜか水が出る場所を、とりあえず掘ってみる。
私はもうしばらく、絵という場所を掘ってみます。