宝石は、なぜ「戻ってきた」のか――プリニウス考

前回、宝石と神話とユングのことなどをつらつらと書きました。

同時進行しながら、私の中では「じゃあ具体的な史料ではどうなっているんだろう」という気持ちがずっとあり、あれこれと文献を探していました。

そこで手を伸ばしたのが、プリニウスの『博物誌』第37巻。紀元1世紀、ローマの博物学者が書いた、宝石だけでまるまる一巻分という本です。

ちなみにちょっと補足。

プリニウス(大プリニウス)
古代ローマの博物学者(23〜79年)。皇帝の側近も務めた人物で、最期はヴェスヴィオ火山の噴火に近づきすぎて命を落としています。

『博物誌』
彼が書いた全37巻の百科事典のような本。天文学から動植物、鉱物まで、当時知られていた自然の知識を全部詰め込んだもので、西暦77年頃に完成しました。最後の第37巻がまるごと宝石の話です。

※読むときの注意点
古代の石の名前(smaragdusなど)は、今の鉱物名とそのままイコールではないので、そこだけ気をつけて読む必要があります。

読み始めてすぐ、ある物語に引っかかりました。

捨てた指輪が、戻ってくる話

紀元前6世紀、サモス島の王ポリュクラテスは、あまりにも幸運続きだったそうです。

古代の感覚では、これは危ういことでした。幸福が積み重なりすぎると、運命はどこかで必ず反転する。そう信じられていたからです。(今もそういう思考の方はいますね。いいことが続くと怖いって感覚です。)

そこで王は、自分から不幸を一つ作ることにします。選んだのは、大切にしていた指輪でした。船で沖まで出て、その指輪を深い海に投げ捨てたのです。

これで帳尻が合う。そのはずでした。

ところが数日後、大きな魚が獲れて、王への贈り物として宮殿に届きます。料理人がその魚を開くと――中から、捨てたはずの指輪が出てきたのです。

普通なら「奇跡だ、宝石が戻ってきた」と喜びそうなところです。

でもプリニウスは、これを悪い兆候として書いています。

運命から逃げようとして海に捨てたのに、運命そのものが指輪を本人の手元に送り返してきた。

「お前は、逃げられない」

そういうお話なんですね。

これを読んだとき、当時の宝石って「美しい装飾品」である前に、「人間が運命とどう向き合うかを映す物」として扱われていたんだ、と気づきました。

石の模様に、神様を見る人たち

もう一つ、印象に残った話があります。

ローマと戦ったエピロス王ピュロスが持っていたアゲートには、竪琴を持つアポロンと九人のムーサの姿が見えた、とプリニウスは書いています。

ここで面白いのは、これが彫刻ではないということです。人間が意図的に彫ったのではなく、石そのものの自然な模様が、たまたまそう見えた、ということになっているんです。おそらく想像するに、月にウサギが見えるのと一緒かなと。

似たような話は他にもあって、あるアゲートの模様には、川や森、家畜の姿が見えたとも記録されています。

バビロニアで神として崇められていた「Eye of Belus」という石もそうです。白い地に暗い「眼」のような模様があって、その中心から金色の輝きが見える。それだけの理由で、当地の最高神へ捧げられていたそうなんです。

自然の模様を見て、そこに何かを見立てて、名前をつけて、意味を与える。

これって、前回の記事で書いた「昔の人たちの感覚の鋭さ」の話と、そのままつながっている気がします。石ころの模様の中に神様の姿を見つけてしまうくらい、彼らは「見る」ことに真剣だったんじゃないかと。

そしてそこに象徴を見出し意味を見出してきたのです。

見ているだけで、価値になる

もうひとつ気になったのが、smaragdus(今のエメラルドに近いとされる石。でもエメラルドではなく緑石全般)の記述です。

プリニウスによると、この石の緑色はどんな植物の緑よりも人の目を楽しませて、長く見ていても目が疲れないとされていました。宝石を彫る職人が、疲れた目を休めるためにこの石を眺めた、という記録まであります。

色にどんな意味があるか、という話の手前に、「見ていて気持ちがいい」という身体的な経験そのものが、すでに価値になっている例です。

iris と呼ばれる石の記述も似ています。太陽の光を受けると壁に虹のような色を映し出し、その色は絶えず変わり続ける。プリニウスは、この変化し続ける光の現象そのものが、見る人の「驚異」を呼び起こすと書いているんです。

物質があって、光があって、それを人間が見て、驚く。それがそのまま価値になる。

これ、すごく単純なことなんだけど、意外と見落としがちな順番だなと思いました。

それで、結局何が言いたいかというと

指輪の話、アゲートの話、smaragdusの話。並べてみると、一つの仮説が浮かんできます。

宝石の「意味」って、文化が完全に自由に決めているわけじゃなくて、その石が持っている色とか、硬さとか、光の反射とか、そういう物質的な性質そのものが、意味の方向をある程度決めているんじゃないかということです。

硬くて壊れないadamas(アダマス、ダイヤモンドの古名)は「屈しないもの」という意味へ。色がころころ変わって単純に言い表せない石は「説明しづらいもの」としての価値へ。血のような赤い石は、身体や生命への連想へ。

面白いのは、プリニウス自身が、こうした意味づけの多くをMagi(呪術師たち)の誇張や虚偽として、けっこう手厳しく批判しているところです。

彼が丁寧に分けているのは、「実際に観察したこと」と、「そこに後から付け足された物語」なんですね。二千年近く前の人が、この距離の取り方をしていたのは、正直ちょっと驚きました。

宝石に「意味がある」と考えるのは簡単です。

でも本当に気になるのは、その意味がどこから、どうやって生まれてきたのかという方なんだと思います。

お見立ての中で「この石が、この人に反応している」と感じる瞬間があります。あれもきっと、色や硬さや光そのものに、私が何かを見出しているということなんでしょう。

それにしてもプリニウス先生。
まだまだ書いていらっしゃいます。そのうち続きを書いてみようと思います。

参考文献 プリニウス『博物誌』第37巻(D. E. Eichholz訳、Loeb Classical Library 419, Harvard University Press, 1962)